いつまで母さん

依存症の家族と暮らす

父のこと

私が6歳の時に、両親は離婚した。

 

父は、結婚してから正看護師の資格を取った。精神科の看護師だった。

 

父の両親(私の祖父母)と父は、福島県の出身。

因みに、私は東京で生まれ育った。

祖母の実家は福島県で鉄鋼の工場を経営していたようだ。

祖母は女姉妹しかいなかったので、

祖父は、祖母の実家の工場の跡取りとして婿に入った。

祖父母の間に、子どもは4人生まれた。

女、男、男、女

と、父は、長男だった。



しかし、祖母は、父が小学校2年生の時に病気で亡くなった。

 

祖父は、入り婿で、跡取りという立場で、妻を亡くし、妻の実家で4人の子を育てながら働いていた。

 

そこでお手伝いさんをしていた女性が、4人の子どもの面倒を見てくれるようになった。

2人は恋仲になった。

入り婿だった祖父は、お手伝いさんと4人の子どもたちと一緒に、祖母の実家から勘当されてしまった。

 

祖父と女性は、東京で新しい人生をスタートさせた。2人の間に息子も誕生した。

そうして歳月が流れ、

父は、母と結婚した。

看護職同士の結婚だった。

 

父は、礼儀正しく穏やかで、人前で怒っているのを見たことがない。

 

パチンコ、競馬、競輪、ボートレース、アルコール依存症だった。

飲酒をしては、泣きながら裸になり道に出る。

そのたびに母とのけんかが絶えなかった。祖父の家での家族会議もめずらしくなかった。

父は、私を連れて、よくパチンコ、競馬場、ボートレース会場に行った。

カメラも、父がすぐに質屋に入れてしまい、写真は、ほとんど撮れなかった、と母が言っていた。

動物園や、鉄道博物館、遊園地、群馬県のケーブルカーの写真など数枚残っている。

ギャンブルもする、酒も飲む、子どもと遊ぶ。

 

当時、父は20代後半。

小学校2年生で母親を亡くし、寂しい子ども時代を過ごしたのだろうか。

2度と会えない母親にたくさん話したいことや伝えたいことがあったのだろう。



心の傷を酒に癒してもらうしかないほどに。

 

どんな辛さから解放されたいために

ギャンブルに依存していたのか。

 

知る由もないが、この歳になって、自分もアルコール依存症になって、

少し父の辛さが感じられるようになってきた。

 

父は、一緒に歩きながら、

よく、さだまさしさんの「無縁坂」(1975年リリース)を口ずさんでいた。

 

その度に、母は、「道を歩きながら歌うなんて、みっともないからやめて」と言った。

 

 

🎵『母がまだ若い頃、僕の手をひいて

この坂を登るたび、いつもため息をついた』

 

🎵『運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど、

そういうことってたしかにあると、あなたをみててそう思う』

 

🎵『忍ぶ忍ばず無縁坂噛みしめるような

ささやかな僕の母の人生』

 

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父は、途中から歌い出すこともあったが、私は、聞いているうちに覚えてしまった。

 

子ども心に、父は、自分の母親と、妻である私の母とを重ねて見ているのだと思った。

 

父は、いつも私の母に一方的に叱られていた。

離婚も母から言い出した。

 

離婚後、

父は私を引き取り、

母は妹を引き取った。

 

私が、妹の話ばかりするので、悲しくなった父は、私を自転車の後ろに乗せて、

母の元へ連れて行った。

母が、私と妹を育てることになった。

 

一度は私を手放した(私は当時、母に捨てられたと思っていた)母のもとで生活することになった。

 

母は、私たち子供を2人を連れて実家に戻った。

プロペラ飛行機で行く離島。

東京からはかなり遠かった。

 

父は、離婚後、体重がかなり落ち、精神的に参っていたようだ。

私たちが住む離島に来て、

母に対し、何度か復縁を申し込みにきていた。

しかし、母は、断り続けた。

離婚後、3年目に父は、母との復縁を諦めた。

 

私は、父が大好きだった。

 

母は、離婚と同時に父の写真を全て捨ててしまった。

私宛に届いた父からの手紙も、母が隠してしまい読めなかった。

 

数年経って、押し入れの中から父の手紙を見つけたときは、

声を出して泣いてしまった。

 

程なくして父が再婚したという話を親戚から聞いた。

 

父は、酔っ払って私に電話をかけてきたことが数回あった。

 

私が大学に入学した時は、「進学祝い」とのことでコツコツ貯めたという50万円を送ってきた。

 

私は、高校を卒業するまで父には会えなかった。

 

父は、再婚後、大きな病院の管理職に就いたが、ギャンブルと飲酒はやめられなかったようだ。

 

それが父の記憶。

 

私の夫もギャンブル依存症。

自分でも呆れる話だが、私は、父と似た人と結婚した。

 

斯くいう私も、3人目を身籠もっている時に、夫が家出をしたり、さまざまなことがあった。

ギャンブル依存症で、自分のことしか考えていない夫に寂しさを感じて、離婚しようと思ったこともなん度もある。

 

『弱いもの同士』が集まっても『弱い』の二乗で弱さの極みじゃないの?と、自分にも夫にも憤りを感じてキレたことも何度もある。

 

今では、

弱いもの同士も束になれば強くなる。

社会の中で、生きていけるくらいには強くなれる。

そう強く実感する。



我が家は、依存症の家族。

他者から見れば、家族関係の構造も他の家族とは違うだろう。

 

ただ一つ言えるのは、私には、離婚して子どもから父親を奪う権利はない。負の連鎖を断ち切るのは私しかいないということだ。

 

夫は、とりあえず、子どもに危害を加えたり、虐待などは見られない。生活費を出してくれない月もあるが、仕事はしている。

 

私自身、父親がいなくて、寂しくて辛い夕暮れ時を子ども時代に嫌というほど味わった。



子どもたちに同じ思いはさせたくない。

 

心に大きな傷を抱える依存症だからこそ、不全家族の中で育ってきた2人だからこそ、束になって強くなって、社会の中で生きていく。

 

子どもを守る。子どもの未来も守る。

 

それが、父が私に身をもって、伝えたかったことのような気がしている。

父は再婚した女性と40年以上暮らしている。

 

腹違いの私の妹が30歳で自死した。

母親も娘も若くして逝ってしまった父の心の傷を思うと居た堪れない気持ちになる。

 

静かな晩夏の夜、1人でひっそりと父を思っている。