病棟で勤務をしていると、自分の知識が足りないことで、患者さんにきちんと看護ができていないな、と感じることがある。
精神科で、10年以上も退院できずにいる患者さんと、社会の急速な進歩とのギャップを目の当たりにすると、何かできることはないかと、真剣に考えるようになる。
認定看護師の資格を取ろう。
45歳の時の決心した。
それから1年半は、上司から許可をいただいたり、
勤務調整や、自費で学費の準備をした。
46歳の時に、受講資格試験を受け、
47歳から2年間の認定看護師の研修が始まった。
6ヶ月間の講義は、東京の研修施設で受けた。
その間、子どもたちは、夫の実家(お姑さん)と夫が見ることになった。
長男は大学生、14歳と10歳の娘を残して上京し、私は、1人でホテル住まいをして講義に臨んだ。
週末は、できる限り自宅に戻った。私自身がホームシックでツラいこともあった。
講義の内容も、精神疾患・精神科看護の多岐に渡った。
特に、虐待や、自殺、犯罪被害者、薬物依存症の集中講義の週は、当事者のお話を聞く機会もあり、メンタル的にかなりキツい内容であった。
研修の2年目は、2週間の地域施設での実習と、3週間の病院実習(自分が勤務している病院ではない)だった。
家族への弊害も出てきた。
11歳の娘の運動会に行けなかったこと。
15歳の高校受験生の娘が、10月から不登校になったこと。
『認定看護師になり、患者さんの笑顔のために、様々な知識を学んで、良い看護を提供したい』
という思いと、
自分の子どもが大変な時に、病院実習をしている場合ではないでしょ!?
実習中に、頭の中をこだまするリフレイン、心の声。
生まれてからずっと、笑顔の多い長女だったが、
LINEのビデオ通話で見る長女の顔は、
笑顔が消え、明らかにうつ症状を呈していた。
娘は、不登校のはじめの頃は、日中、ずっと1人で自宅にいた。
同級生たちが心配して、玄関先まで来たりしていたようだ。
落ち込みと、うつ症状があまりにもひどいので、
夫の実家で寝泊まりするようになった。
日中は、お姑さんが娘のそばにいてくれた。
夫は、仕事とスロット屋を往復し、夜、遅く帰宅するという、生活リズムは変わらなかった。
娘は、夏休みあたりから
あいみょんの
🎵『生きていたんだよな』
をよく口ずさんでいた。
自死した女の子を主人公にした歌詞。
不登校の原因で、『特に思い当たる節はない』という娘。
かなりハイレベルな学習塾に、娘の親友が行っていた。娘も、受験生になる春休みから、その学習塾に通い始めた。放課後、一旦、帰宅して、19時から22時まで毎日通っていた。
SNS?
友達?
娘に、理由を聞いても答えない。
学校に行かない理由は、特にない・・・と言う。
私は、遠く離れた東京で、
病院実習をしながら、自分の娘が中学校の高い窓から、飛び降りないかと、それが一番心配で、怖かった。
私の腹違いの妹が31歳で、実の兄のように慕っていた叔父も43歳で自死した。
自死遺族である私は、どうしても最悪の方へ考えてしまう。
私の病院実習の受け持ち患者さんは、精神疾患がかなり悪化し入院されていた方だ。認定看護師の実習は、病棟勤務とは違い、受け持ち患者さんとの時間がたくさん持てる。
受け持ち患者さんから、入院までの経緯や、ご家族のお話をうかがっている間、
看護師として、女性として、母親として、
様々な考えが、頭の中を交叉し、いたたまれない思いに何度もさいなまれた。
3週間は長い。うつ状態の娘の大切な時に、そばにいない母親は失格ではないか?
実習をやめて帰るべきか?
でも、この実習をやめたら、認定看護師への道は、なくなるかもしれない。
娘が、飛び降りしたら?
毎日の実習報告と、看護計画・実践・評価、関係機関との調整などがあり、時間的な制約は多かったが、できるだけ娘とLINEやビデオ通話で話をした。
娘が、いつも口づさんでいた、あいみょんの
🎵『生きていたんだよな』の歌詞
🎵生きて 生きて 生きて 生きて 生きて
生きて 生きて 生きていたんだよな・・・
の部分が、あいみょんの歌い方のせいか、どうしても、あいみょんからのエール
「生きて!」と言われているように聴こえた。
娘、生きて!
娘、生きて!
どこにいても、心の中で、ずっと、あいみょんの歌とともに、私の声がこだまする。
葛藤の中、夕暮れのビデオ通話で、「お母さん、実習がんばって。私、大丈夫だから。おばあちゃんもいるし」ボソッと、娘が言った。
泣いた。
娘のこと、
受け持ち患者さんのこと、
認定看護師のこと、
が、一気に込み上げてきて、胸が熱くなった。
みんな、生きて!
そうして、3週間の実習を終えた。
最後の日、受け持ち患者さんと2人で写真を撮った。笑顔だった。
所縁のある病院のそばを通り、帰路に着いた。
帰ると、娘の三者面談と進路決定が待っていた。娘は、12月から、少しずつ中学校に行けるようになり、笑顔が戻ってきた。
翌年の春、娘は、二次募集で高校に合格した。
私も認定看護師の資格試験に合格した。
まだ、「大変だったけど、良い思い出だったね」とは言えない、生々しい記憶である。
母親が、子どもを置いて、自分の目標に向かってやりたことをやっても良いのか?
子どものイベントには、母親としてそばにいるべきだ。
答えは、まだ見つからない。
葛藤は続く。
ただ一つ、分かったことは、
その場、その場で、
子どもと、自分自身に
真摯に向き合えば、
その場に適した最良の方法が思い浮かぶ
というとこ。
現実や、ツラさから逃げないで真摯に向き合う時、どう動けば良いのかが見えてくる。
それが「母親になる」ということではないか?と、思うようになった。
今日も、あいみょんの
「生きて!生きて!」と聴こえるエールを胸に、いつまで母さんは、生きている。