いつまで母さん

依存症の家族と暮らす

地に足をつけて生きる

知人に勧められて手に取った。

今まで、

自己肯定感を高めて、目標を持て。

勝ち組にならないと生きている価値はないぞ。

 

そう言われて、

そう言い聞かせて生きてきた。

 

資格や名誉、お金を得るために

「家族や大切な人との時間」を犠牲にしてきた。

「自分を労わる時間」を後回しにしてきた。

 

何が残ったのか?

 

私はアルコールに逃げ、

長男は市販薬に頼り、

夫は、ギャンブルの沼に落ちたまま、

娘は不登校、うつ病

貯金ゼロ。

 

この本は、

啓発本に振り回されて、画一化されていた私に、

新たな考え方を教えてくれた。

 

いや、本当は、自分自身の中でも気がついていたのかもしれない。

「資格取得や名誉欲、金銭欲を満たしても幸せにはなれない」と。

 

この本が、その気づきに確信を与えてくれた。

 

私にとっての幸せは、家族との時間だ。

住みやすい家や

働きやすい職場にする工夫をしていこう。

それ以上は望むまい。

いらないモノに囲まれた暮らしはやめよう。

名誉も地位もいらない。

50歳を過ぎた今頃になって、本当に大切なものが見えてきた。

 

「地に足をつけて生きろ」

「知足」とともに、2023年の私の座右の銘にする。

 

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久しぶりに空を仰いだら晩秋色になっていた

1.いつまで母さん10大ニュース

 

この数ヶ月、さまざまなことがあった。9月20日に「どんぐりの発芽」のことをブログに書いてから、今日までに起こった「いつまで母さんの10大ニュース」を書き出してみた。

1.「飲酒していない」と言っていた患者さんが隠れて飲酒を続けていた

2.長男は「もう飲んでいない」と言っていたが市販薬を飲み続けていた

3.不登校だった次女が修学旅行に行けた

4.次女は、再度、心理テストを受けて、やはり境界型知能と診断された。

5.長女がうつ病と診断された。

6.仕事が忙しかった。頭の中が飽和状態になって、こころが枯渇していた。

7.オンラインゲーム『コンパス』を始めて4年目になっていた。依存先が飲酒ではなくなったが、不眠の原因。

8.断酒はなんとか継続中

9.夫がギャンブルに行かなくなった。洗濯、炊事をしてくれるようになった。

10.そして昨日、私は、退職して無職になった。

 

2.こころが枯渇したとき

 

職場では、職業柄、患者さんやご家族の話を聞き、他職種の方のつぶやきや本音を聞き、同僚の話や愚痴や相談を聞く。傾聴と共感をくりかえし、帰宅するとヘトヘトになっていた。

 

家では、子供たちの不登校、夫のギャンブルと借金、長男の薬物依存の問題が常にある。

でも、家族と本筋に触れる会話はできない。

夫は怒るし、長男は悲しそうな表情になって会話が続かない。

次女の不登校の原因は、朝の血圧の低さと、境界型知能だった。そのためできる部分とできない部分の凹凸が著しく、周りの人に理解されにくい。そりゃ行きづらいよなあ、となり、強制的に登校しなさいとも言えない。

 

気がつけば、私は、この2年、友人にも会わず、家と職場の往復だけだった。

 

9月の終わり頃から、気を抜くと、決して考えてはいけないようなことが、頭の中をぐるぐる駆け回るようになっていた。

 

自然界でも、職場でも、「私は単なる駒(コマ)だ。周りの人から見たら、私の感情なんてどうでもよいし、あってもなくてもどうでもよいのだ」

私の存在が無意味で、無価値に思えてきた。

楽しかった仕事なのに、自分が駒に思えてきて、すべてが止まってしまったように感じた。

 

3.長女からのS0S

 

そんな中、10月の初旬に長女から「もうダメだ。おうちに帰ってもいい?」と電話がきた。「ご飯を食べるのもやっとなの」。大学生の長女からのSOSだった。普段は、弱音を吐かず、いつも笑顔で、周りに人一倍気を使う長女。中学校3年生の時以来のSOS。

 

あいみょんの「生きていたんだよな」の歌が、また、私の頭の中で聞こえ始めた。

 

大学を一度も休んだことのない娘が、1週間の休みをもらい帰省してきた。

笑顔はあるが元気がない。

1週間の帰省休みが終わり、大学に戻る娘が心配で、私と次女は、長女が一人暮らしをしている部屋で1週間、長女と一緒に過ごすことにした。

 

大学にも通えるようになっていた。

 

4.京都へ1泊旅行

 

長女の気分が晴れるかと思い、長女と次女が行きたがっていた三十三間堂や、伏見稲荷に行くことにした。私も、久しぶりに京都の街を歩いた。

嵐山と三十三間堂、伏見稲荷神社を1日でまわった。前回、1人で来た時とは違い、時間をかけてゆっくりまわった。三十三間堂の千手観音と二十八部衆に厳かに向き合い。伏見稲荷のお稲荷さんからは、ぐっと見おろされた。

そこで感じたのは、自分の声が全く聞こえなくなっている黄土色に枯渇した自分の心。

 

5.正真正銘のSOS

 

その翌日、長女は京都でも落ち着いており、動けていたので、もう大丈夫だと判断して、私と次女は家に戻った。

 

2日後、長女から「やっぱりダメだ」と連絡があり、私と次女はまた踵を返し、長女の家に向かった。

 

長女は、返事も表情も少なく、全く動けなくなっていた。

 

心療内科を受診をすることにした。大学の先生にも、単位や今後の進路の相談をした。

 

長女は、「休学だけはしたくない」という。「休学して復学した時に、今と違うメンバーで授業を受けるのはつらい。復学しても行かなくなるような気がする」とのことだった。

入学してから、皆出席、夏休みも講義があり、夏休みは2週間だけだった。それ以外にも、土曜日、日曜日は、先生からのお声かけがあり、コンクールやオープンキャンパスのお手伝いをしたりしていた。部活も始めた。

 

全ては夢の実現のため、未来のため。

 

初めての土地で、初めての一人暮らし。全て頑張って乗り越えてしまう長女の性格でも、さすがに体力、気力にも限界がある。

さらに、秋になり、急な日照時間の減少と、なかなか日に当たらない生活スタイルにより、うつ症状は増していったと思われる。

そして、1番の問題は、本人にうつの原因が思い当たらないことだった。「忙しかったけど、なんとかやれてた。友達とも上手くいっていた。ただ、今の感覚としては、中学3年生のうつ症状の時みたい。本や黒板の文字も、人の話も頭に入ってこない。毎年、この時期になると、似たような症状になるけど、今年はちょっと重症な気がする」とのことだった。

 

心療内科を初めて受診した。

「季節性のうつ病」と診断を受け、内服薬は、抗うつ薬と胃薬が半錠ずつ処方された。

さらに大学の先生の薦めで、大学のカウンセラーの方ともお話ができた。

 

6.私のこころの声

 

娘たちと過ごすうち、自分自身の奥底から消えいりそうな声が聞こえてきた。私の中でこの一年、抑圧してきた声だった。

 

退職しよう。

 

仕事の合間をぬって、職場を抜け出し、次女を学校に送ることも、もうしなくていい。

24時間、オンコールに近い職場の電話に悩まされなくていい。

娘のSOSにすぐに駆けつけられる。

夫や長男とゆっくり話ができる。

長女の身の回りの世話もできるし、通院も付き添える。

長男の市販薬物依存の治療も始められるかもしれない。

 

担当だった患者さんの顔が浮かぶ。今月の終わりに、挨拶に行こう。笑顔で。

 

駒のようでつらくても、

寂しくて悲しくても、

切なくて、理不尽でも、

 

必ず、道はあるから、

一緒に、ひたすらに、今生(こんじょう)を生きていきましょうと。



 

 

どんぐりの発芽

 

1.明治神宮を散策した時のこと

 

まだ、飲酒をしていた頃。

毎日のように、さまざまなところに行き、ひたすら歩いた。

 

自分と向き合うというと格好がいいが、いま思うと、いわゆる逃避だった。

 

どうしても飲酒がやめられない。

どうにもならない家庭のこと。借金のこと。

全てから離れたかった。

 

今は、様がわりをした原宿駅。

 

ゆるりゆるりと歩いて明治神宮へ。

 

 

高い木立を見上げながら歩いた。

 

 

加藤清正公は、肥後初代藩主

熊本城、名古屋城、江戸城などの築城に関わった。

清正井

あずま屋

 

風を感じながら、木立や、葉、小さな石ころまで、ゆっくり見て歩いた。

三交替勤務と、アルコール漬けで、こんな時間は、今までなかった。

変な話だが、この散策の後、アルコールを飲む予定なのに、アルコールをやめなきゃと思って歩いていた。

静かな夕暮れだった。

 

春を待つアオキ。

野鳥もたくさんいたが、技術と集中力が無くて撮影できず(泣)

 

季節が変われば菖蒲の花が美しい場所。

 

2.どんぐりの発芽

歩き続けていると、足元に、たくさんのどんぐり。

よく見ると、根が出ている。

あ、芽も出てる!

 

子供の頃から見慣れたどんぐり。
発芽しているのを、この歳になって初めて見た。

感動の瞬間だった。

 

先のことなんてわからない。

環境が悪いなんて憂(うれ)いていられない。

がむしゃらに芽を出した小さなどんぐりの気概を感じた。

 

馴染み(なじみ)のどんぐりが、こんなにガンバってる。

アルコールで現実から逃げ回っている自分が恥ずかしかった。

ひと気もなく、ちょっぴり泣いた。

 

同じ日、明治神宮の境内では数組の神前結婚式が行われていた。

美しい花嫁さんと花婿さんが穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

ギャンブル依存症の夫。

離れ離れの心。

現金を手にすると言動まで変わってしまう夫。

 

だけど、夫も、きっと幸せになりたい思いは同じだろう。

幸せになろう・・・子どもたちのためにも・・・

その時は、自信もなく、小さく、本当に小さく、そう思った。

 

3.あれから数年後

 

断酒をして2年以上になる。

 

今でも買い物をしながら、気が付くと酒類の陳列棚の前で、ボーッと立ち尽くしていることがある。

ほとんど無意識に。長年の習慣かと思う。

 

そんな時、あの日のどんぐりを思い出す。

 

逆境に耐え、大きな木になれるかどうかも分からない。

大自然の中でどんな試練が待っているかもわからない。

それでも、がむしゃらに芽を出したどんぐり。

 

「いつまで母さん」でいなきゃいけないの?

女は、母親になったその瞬間から、「いつまで母さん」

という重荷を背負って生きていくの?

 

という問いに、明治神宮のどんぐりが、

 

その問いに答えはない。

『母さん』として、腹をくくって生きていく覚悟。

足りないのは、ただ『母さん』としての覚悟だ。

 

そう言っている気がした。

 

 

ところで、

明治神宮のあの日のどんぐりは、どうなっただろう。

 

整備されてしまったのか?

また、近いうち行ってみようと思う。

長女からの手紙

1. アルコール依存症・・・堕ちた結婚生活

 

ギャンブル依存症の夫との結婚生活。

3人目を妊娠中に夫が家出をした。

出産後、また同居を始めたが、


私は、何もかも嫌になり、飲み歩くようになった。

三交代の病院勤務と、飲み歩きで、家を留守にすることが多くなった。

家では、遮光カーテンを閉め切り、朝から呑んで寝ているだけだった。

 

自分で「母親失格だ」と思いながらも、

 

また飲みに行く。
また夜勤が始まる。

 

酔って失敗ばかり。

大量飲酒の後悔と

自己嫌悪。

 

そんな毎日が続いた。


子どもたちは、夫の実家でご飯を食べたり、

持ち帰りのお弁当を買って食べたりしていた。

 

夫のギャンブル依存性は続いていた。

 

そんなある日、小学校2年生だった長女の手紙がテーブルに置いてあった。

 

アルコールに100%依存しきっていた当時の私は、その手紙を読んでも、ほとんど気持ちが動かなかった。

 

2. 長女からの手紙

 

8年後の3月。長女は、中学3年生の10月から始まった『4か月間の不登校』を乗り越えて、高校に合格した。

 

私も、同じ年の3月に2年間の研修を終え、認定看護師に合格した。

飲酒は続いていた。

少し時間ができたので、結婚20年分の断捨離を始めた。

 

本を500冊以上捨てた。

衣類や書類もゴミ袋20袋以上捨てた。

 

結婚生活のほとんどが、『いらないモノ』で埋め尽くされていたことに愕然とした。

断捨離をしている最中に、

 

長女からの、あの時の手紙が出てきた。



長女が、小学校二年生だったころに戻って、なわとびをするようすを見てあげたい。

 

でも、時間は取り戻せない。

泣いた・・・

 

そして悲しいことに、

長女の手紙を読んでも、やはりアルコールをやめられなかった。

 

やめたかったが、やめられなかった。

 

 

 

3. 断酒を決意した時(長女から感謝の手紙)

 

1年後の『5月31日』ふと思い立ち断酒を決めた。

今までにも何度も断酒を誓っては、挫折してきた。

 

「また、どうせ続かないだろう」と自分を信じることはできなかったが、とりあえず断酒を始めてみた。

 

なぜか、2年以上経った今でも『断酒』が続いている。

 

小学校二年生だった長女からの手紙が、「私のアルコール人生」を集約している。

 

その手紙が、これから守るべき「大切なもの」や、「帰る場所」を示してくれている。

 

そして、長女の高校の卒業式でもらった、長女からの感謝の手紙とともに、断酒を続ける「お守り」になっている。

 

 

 

4. 松本俊彦先生のインタビュー

 

以下、松本俊彦先生のインタビューの抜粋である。

依存性者の特徴をとてもわかりやすく説明してくださっている。

 

『――松本さんは精神科医として多くの依存症患者と向き合っていらっしゃいますが、依存症の方はどういう方が多いのでしょうか。

 

松本俊彦: 依存症患者は不真面目で反社会的であるというイメージを抱かれやすいですが、実は非常に頑固で潔癖で自分のルールに厳しい人が多いのが現状です。「意思が弱い」とも言われますが、何度失敗しても周囲に何を言われてもやめられないというのは、視点を変えれば「意思が強い」とも言えるわけです。依存症患者と関わる中で、これまでたくさんの思い込みに自分が洗脳されてきたことに気づかされました。

 

――依存症患者になりやすい人の共通点などはあるのでしょうか。

 

松本俊彦: 自分の意思や性格が強すぎる人、人に傷つけられてもSOSを出すことができない人が依存症に陥りやすい傾向があります。 患者さんと向き合う中で、依存症はすごく人間くさい病気だと気がつきました。依存症患者の一つの特徴として、人生が波乱万丈で最高地点と最低地点の差が激しい人が多いことが挙げられます。見栄っ張りで常に背伸びをしていて自分を1.5倍大きく見せようとしたりするけど、実はすごく寂しがり屋な人が多くて。依存症は人間くささが濃縮されて高濃度になっちゃった病気のような気がしますね。』

https://news.yahoo.co.jp/articles/e07a9d717fac12d2bf7afc4ef6c4a191e708dfd8

 

『自分の意思や性格が強すぎる人、人に傷つけられてもSOSを出すことができない人が依存症に陥りやすい傾向があります』

 

母は、こうあるべき、

家庭は、こうあるべき、

仕事や人生は、こうあるべき。

誰かがつくった価値観にしばられて、自分を追い込んできた。

 

それでは、自分の人生を生ききれてはいない。

生ききれるはずもない。

 

それは、誰かがつくった価値観に、がんじがらめにされた人生だから。

 

我が家は、

ルコール依存性、ギャンブル依存性、市販薬物依存性、不登校がいる家族。

 

丸ごと全部受け入れて堂々としていれば、それで良い。

最近は、そう思えるようになってきた。

少しずつだが「生きやすく」なってきた。

 

『夏の終り』

ギャンブル依存症の夫との離婚を考えた時



1.夫の家出

 

3番目の子を妊娠して5ヶ月目だった。

夫が、突然、通帳を持って家を出ていった。

 

「子供2人で精一杯なんだよ」

「3番目は、いらない」

「俺の子じゃないんじゃないか?」

仕事から帰宅した私に、この言葉だけを残して帰ってこなくなった。

ショックで言葉もなく、途方に暮れてしまった。

 

この時の夫の言葉は、今でもフラッシュバックで頻回に蘇る。

 

当時の私は、恋愛ドラマを見て疑似恋愛に浸ることはあったが、

浮気をしようと思ったことはなかった。

お腹の子と上の子ども2人と一緒に、全ての荷物をまとめて離島の祖母のところに身を寄せた。

 

毎日、「元の家に帰りたい」と泣く子供たちと、一年間、離島で過ごした。

 



3番目の子を出産し、叔母や親せきの説得もあり、再び夫と同居するようになった。

 

 

一緒に暮らしても、お互いの気持は離れていく一方だった。

 

 

2.足るを知る(知足)

 

結婚当初からギャンブルをやめられず、現金を持てば、すぐにスロット屋へ直行する夫。

 

会話をしても「お前とは結婚生活を続ける気はない」を繰り返すだけの夫。

 

私は、飲酒量が増えて、夜遅くから飲み友と飲み歩きをするようになった。

飲み友の何人かは、男性だった。

 

私の夫は、アルコールが飲めない。

 

私は、飲み友と飲んで食べ歩きをして、夫とは行けないようなジャズの店や、デイキャンプ、釣りなどにも出かけた。

 

私は、夫や子どもからの電話に、いつしか平気で嘘をつくようになった。

 

先輩や、兄弟からも

「男性との飲み歩きはやめなさい。家族のある身で、そういう関係になれば、熱い鉄板の上でジュージューと、身体も心も焼かれ続けているのと同じことになるのよ」

 

「飲んで遊び歩いてる場合じゃないでしょ。子どもがいるのよ、足るを知りなさいよ」

 

と言われた。

 

旅行や、飲み食べ歩きの楽しさなど、

外の世界を知り、背中に羽が生えた当時の私には、

その言葉は届かなかった。

 



私は、

飲み友たちと、あたらしい世界や知らなかった世界を見るたびに、本気で、夫との離婚を考えていた。

 

夫が家出をしていた1年間、私は、1人で出産や、子どものこと、引っ越しなど全てのことをした。今度は、夫がそれをやる番だ!と、自分や夫、義母、周囲にも言い聞かせていた。

 

ギャンブル依存症の夫から、今まで受けてきた心の傷が、その時の私の考えや行動の原動力になっていた。

子どもたちや義理母にしてみれば全く理不尽極まりない話だった。

 

3.夏の終り

 

瀬戸内寂聴さんの小説に「夏の終り」がある。

 

瀬戸内寂聴さんが、若い頃、夫の教え子と恋仲になり、夫と娘を捨て、

その若者と駆け落ちをした自叙伝である。

満島ひかりさん主演で映画化された。小林薫さん、綾野剛さんが共演していた。

 

そのDVDを見ていたら、私が、飲み友から言われたのと同じようなセリフがあった。

以下、小説より抜粋する。

 

「もう厭(いや)だ。僕は男妾(おとこめかけ)じゃない。あなたの扱いはそうじゃないか、でなかったら、そっちは娼婦だ、あなたは精神的娼婦だ」

 

 

「おれはずいぶん馬鹿にされつづけたと思う。あなたはで木偶(でく)だ。意志なんかない人間だ」

「夏の終り」瀬戸内寂聴/新潮社84頁

 

 

「もうどうなったっていいんだ。ぼくはもうどんな立場だってがまんする。あなたが時々会ってくれるだけでいい、ほんとにそれしか望まない。あなたが苦しむのをみるのはいやだ。捨てないといってくれ」

「夏の終り」瀬戸内寂聴/新潮社84頁

 

飲み友からは、

「貴女は、ずるい。ぼくは何も持っていないのに、貴女は、仕事、旦那さん、子ども、すべて持っている。ぼくは、貴女にとっては都合のいい、ただの飲み友?」

と言われた。

 

そう言われるまで、ギャンブル依存症の夫との離婚を真剣に考えていた。

 

でも、子供たちを捨てるなんてできない。

 

違う男性との再婚や、付き合ったり、一緒に暮らすという「覚悟」もなかった。

 

 

夫や家族との暮らしの「外」にある世界を知り、

外の自由な世界への憧れはあるが、

 

進んでも地獄、戻っても地獄のような気がしていた。

 

瀬戸内寂聴さんが、娘さんと旦那さんを捨てたのは、その男性への恋慕が理由だと描写されている。

 

でも、私はこの歳になって、

 

男性への恋慕以上に、「夫と子供との家庭」の外にある世界への「強い憧れ」があったのではないか、と思うようになった。

 

別の男性への恋慕だけで、子どもは捨てられない。

 

もっと、強い「外の世界への憧れ」と「新しい可能性への挑戦」が、当時の寂聴さんを突き動かしたのではないだろうか。

 



女性として、1人の人間として、

 

・夫と子どもと家庭の中で一生を過ごすか?

・自分の可能性や未知の世界への冒険を続けるか?

 

迷う時は、誰にでも訪れる。

 

そして「夏の終り」は、いつも、

沈みゆく太陽が、空いっぱいに余韻を残すように、

 

こころの中に、いつまでも余韻を残す。

子どもたちの笑顔とともに。

長男の胸元についていた『あおむし』を育てたら『蛾』になったこと

私は、蛾と卵にトラウマがある。



私が、小学校2年生の時、友達からカイコガの幼虫を2匹もらった。

せっせと桑の葉を食べさせ、しばらくするときれいな2つの白い繭(まゆ)になった。

 

ある日、2つの繭(まゆ)からカイコガが出てきて、すぐに交尾を始め、卵を産み始めた。

 

あまりの衝撃に、その一部始終から目を逸らすことができなかった。

 

その時、カイコガの触覚や腹など、『蛾』の細部まで見ることになり、

それ以来、蛾や蝶が大嫌いになった。

 

当時の私は、ファーブル昆虫記にかなり影響を受けていた。

 

ある時は、近所の農家から有精卵をもらってきた。

 

同級生数名と理科室の孵卵器(ふらんき)でヒヨコになるのを待った。

 

しかし、予定日になっても卵から出てこない。

「どうしてかなあ」

みんなで考えあぐねているうちに、友達が誤って卵の1つを落としてしまった。



割れたの中から、ヒヨコになりかけのヒナ(?)が見えた。

あまりの衝撃で、それ以来、高校を卒業するまで卵を割ることができなかった。

 

そうして歳月が流れ、私も親になった。

 

長男が通っていた保育園に桜の木があった。

すべり台にのぼると、桜の木に手が届く。

桜の花が散って、葉桜に赤い実が生ったのを、

長男たちは「酸っぱい酸っぱい」と言いながら取って食べた。

 

帰宅して、ふと長男の胸元を見ると「あおむし」がくっついている。

 

「育ててみようか?」ふいに思い立って、虫かごで育ててみることにした。

 

長男は、カブトムシやカマキリなどには興味を示したが、「あおむし」には、あまり関心がない様子だった。

毎日、「あおむし」にキャベツの葉を2枚与えた。

 

大食漢の「あおむし」は、大きなキャベツの葉をモリモリ、むしゃむしゃよく食べた。

 

小学校2年生の時に、カイコガの幼虫に桑の葉をあげていたように、

私はせっせと「あおむし」にエサを与え続けた。



私は、必ず蝶になると信じて疑わなかった。

 

「この『あおむし』は『はらぺこあむし』のように、

きれいな七色の蝶になる。

 

『はらぺこあおむし』のような、きれいな蝶になったら、カイコガのトラウマも払拭されるかもしれない」

 

そんなことを考えたりもした。

 

ある日、「あおむし」の色が茶色くなり、いつしか蛹になった。

 

そして、羽化・・・・・・・。

茶色くて黒っぽい小さな「蛾」になって出てきた。しかも夜。



調べてみると、害虫に分類される「夜盗虫」に似ていた。

 

その夜、小さな蛾を自然に帰すことにした。あたりは月明かり。

 

長男と2人でベランダに出て、小さな葉っぱに乗せた「小さな蛾」が飛び立つ瞬間を待った。



今まで大嫌いだった「蛾」が、なんだか可愛く思えた。

「小さな蛾」だが、とても大きな存在「自然」そのもののように感じた。

 

「小さな蛾」は、しばらくジッとしていたが、夜の林の匂いに気づいたのか、林に向かって飛び立った。



今でも蛾や蝶は大の苦手で近くにも寄れない。

 

でも、あの羽化した「小さな蛾」のことだけは、鮮明に覚えている。

私の中では温かい記憶である。

 

今では、保育園も取り壊され、桜の木ももうない。

 

毎年、葉桜の季節になると、

 

保育園から長男の胸元にくっついてついてきた

 

ちゃっかり者で可愛い「あおむし」と

夜に飛び立った「小さな蛾」のことを思い出す。

 

父のこと

私が6歳の時に、両親は離婚した。

 

父は、結婚してから正看護師の資格を取った。精神科の看護師だった。

 

父の両親(私の祖父母)と父は、福島県の出身。

因みに、私は東京で生まれ育った。

祖母の実家は福島県で鉄鋼の工場を経営していたようだ。

祖母は女姉妹しかいなかったので、

祖父は、祖母の実家の工場の跡取りとして婿に入った。

祖父母の間に、子どもは4人生まれた。

女、男、男、女

と、父は、長男だった。



しかし、祖母は、父が小学校2年生の時に病気で亡くなった。

 

祖父は、入り婿で、跡取りという立場で、妻を亡くし、妻の実家で4人の子を育てながら働いていた。

 

そこでお手伝いさんをしていた女性が、4人の子どもの面倒を見てくれるようになった。

2人は恋仲になった。

入り婿だった祖父は、お手伝いさんと4人の子どもたちと一緒に、祖母の実家から勘当されてしまった。

 

祖父と女性は、東京で新しい人生をスタートさせた。2人の間に息子も誕生した。

そうして歳月が流れ、

父は、母と結婚した。

看護職同士の結婚だった。

 

父は、礼儀正しく穏やかで、人前で怒っているのを見たことがない。

 

パチンコ、競馬、競輪、ボートレース、アルコール依存症だった。

飲酒をしては、泣きながら裸になり道に出る。

そのたびに母とのけんかが絶えなかった。祖父の家での家族会議もめずらしくなかった。

父は、私を連れて、よくパチンコ、競馬場、ボートレース会場に行った。

カメラも、父がすぐに質屋に入れてしまい、写真は、ほとんど撮れなかった、と母が言っていた。

動物園や、鉄道博物館、遊園地、群馬県のケーブルカーの写真など数枚残っている。

ギャンブルもする、酒も飲む、子どもと遊ぶ。

 

当時、父は20代後半。

小学校2年生で母親を亡くし、寂しい子ども時代を過ごしたのだろうか。

2度と会えない母親にたくさん話したいことや伝えたいことがあったのだろう。



心の傷を酒に癒してもらうしかないほどに。

 

どんな辛さから解放されたいために

ギャンブルに依存していたのか。

 

知る由もないが、この歳になって、自分もアルコール依存症になって、

少し父の辛さが感じられるようになってきた。

 

父は、一緒に歩きながら、

よく、さだまさしさんの「無縁坂」(1975年リリース)を口ずさんでいた。

 

その度に、母は、「道を歩きながら歌うなんて、みっともないからやめて」と言った。

 

 

🎵『母がまだ若い頃、僕の手をひいて

この坂を登るたび、いつもため息をついた』

 

🎵『運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど、

そういうことってたしかにあると、あなたをみててそう思う』

 

🎵『忍ぶ忍ばず無縁坂噛みしめるような

ささやかな僕の母の人生』

 

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父は、途中から歌い出すこともあったが、私は、聞いているうちに覚えてしまった。

 

子ども心に、父は、自分の母親と、妻である私の母とを重ねて見ているのだと思った。

 

父は、いつも私の母に一方的に叱られていた。

離婚も母から言い出した。

 

離婚後、

父は私を引き取り、

母は妹を引き取った。

 

私が、妹の話ばかりするので、悲しくなった父は、私を自転車の後ろに乗せて、

母の元へ連れて行った。

母が、私と妹を育てることになった。

 

一度は私を手放した(私は当時、母に捨てられたと思っていた)母のもとで生活することになった。

 

母は、私たち子供を2人を連れて実家に戻った。

プロペラ飛行機で行く離島。

東京からはかなり遠かった。

 

父は、離婚後、体重がかなり落ち、精神的に参っていたようだ。

私たちが住む離島に来て、

母に対し、何度か復縁を申し込みにきていた。

しかし、母は、断り続けた。

離婚後、3年目に父は、母との復縁を諦めた。

 

私は、父が大好きだった。

 

母は、離婚と同時に父の写真を全て捨ててしまった。

私宛に届いた父からの手紙も、母が隠してしまい読めなかった。

 

数年経って、押し入れの中から父の手紙を見つけたときは、

声を出して泣いてしまった。

 

程なくして父が再婚したという話を親戚から聞いた。

 

父は、酔っ払って私に電話をかけてきたことが数回あった。

 

私が大学に入学した時は、「進学祝い」とのことでコツコツ貯めたという50万円を送ってきた。

 

私は、高校を卒業するまで父には会えなかった。

 

父は、再婚後、大きな病院の管理職に就いたが、ギャンブルと飲酒はやめられなかったようだ。

 

それが父の記憶。

 

私の夫もギャンブル依存症。

自分でも呆れる話だが、私は、父と似た人と結婚した。

 

斯くいう私も、3人目を身籠もっている時に、夫が家出をしたり、さまざまなことがあった。

ギャンブル依存症で、自分のことしか考えていない夫に寂しさを感じて、離婚しようと思ったこともなん度もある。

 

『弱いもの同士』が集まっても『弱い』の二乗で弱さの極みじゃないの?と、自分にも夫にも憤りを感じてキレたことも何度もある。

 

今では、

弱いもの同士も束になれば強くなる。

社会の中で、生きていけるくらいには強くなれる。

そう強く実感する。



我が家は、依存症の家族。

他者から見れば、家族関係の構造も他の家族とは違うだろう。

 

ただ一つ言えるのは、私には、離婚して子どもから父親を奪う権利はない。負の連鎖を断ち切るのは私しかいないということだ。

 

夫は、とりあえず、子どもに危害を加えたり、虐待などは見られない。生活費を出してくれない月もあるが、仕事はしている。

 

私自身、父親がいなくて、寂しくて辛い夕暮れ時を子ども時代に嫌というほど味わった。



子どもたちに同じ思いはさせたくない。

 

心に大きな傷を抱える依存症だからこそ、不全家族の中で育ってきた2人だからこそ、束になって強くなって、社会の中で生きていく。

 

子どもを守る。子どもの未来も守る。

 

それが、父が私に身をもって、伝えたかったことのような気がしている。

父は再婚した女性と40年以上暮らしている。

 

腹違いの私の妹が30歳で自死した。

母親も娘も若くして逝ってしまった父の心の傷を思うと居た堪れない気持ちになる。

 

静かな晩夏の夜、1人でひっそりと父を思っている。

 

 

47歳でやりたいことをめざした時、家族は・・・「生きていたんだよな」

 

病棟で勤務をしていると、自分の知識が足りないことで、患者さんにきちんと看護ができていないな、と感じることがある。

 

精神科で、10年以上も退院できずにいる患者さんと、社会の急速な進歩とのギャップを目の当たりにすると、何かできることはないかと、真剣に考えるようになる。

 

認定看護師の資格を取ろう。

45歳の時の決心した。

 

それから1年半は、上司から許可をいただいたり、

勤務調整や、自費で学費の準備をした。

 

46歳の時に、受講資格試験を受け、

47歳から2年間の認定看護師の研修が始まった。

 

6ヶ月間の講義は、東京の研修施設で受けた。

 

その間、子どもたちは、夫の実家(お姑さん)と夫が見ることになった。

長男は大学生、14歳と10歳の娘を残して上京し、私は、1人でホテル住まいをして講義に臨んだ。

 

週末は、できる限り自宅に戻った。私自身がホームシックでツラいこともあった。

 

講義の内容も、精神疾患・精神科看護の多岐に渡った。

特に、虐待や、自殺、犯罪被害者、薬物依存症の集中講義の週は、当事者のお話を聞く機会もあり、メンタル的にかなりキツい内容であった。

 

研修の2年目は、2週間の地域施設での実習と、3週間の病院実習(自分が勤務している病院ではない)だった。

 

 

家族への弊害も出てきた。

11歳の娘の運動会に行けなかったこと。

15歳の高校受験生の娘が、10月から不登校になったこと。

 

『認定看護師になり、患者さんの笑顔のために、様々な知識を学んで、良い看護を提供したい』

 

という思いと、

 

自分の子どもたちの未来は?今は?

 

自分の子どもが大変な時に、病院実習をしている場合ではないでしょ!?

 

 

実習中に、頭の中をこだまするリフレイン、心の声。

 

生まれてからずっと、笑顔の多い長女だったが、

LINEのビデオ通話で見る長女の顔は、

笑顔が消え、明らかにうつ症状を呈していた。

 



娘は、不登校のはじめの頃は、日中、ずっと1人で自宅にいた。

同級生たちが心配して、玄関先まで来たりしていたようだ。

 

落ち込みと、うつ症状があまりにもひどいので、

夫の実家で寝泊まりするようになった。

 

日中は、お姑さんが娘のそばにいてくれた。

 

夫は、仕事とスロット屋を往復し、夜、遅く帰宅するという、生活リズムは変わらなかった。

 

娘は、夏休みあたりから

あいみょんの 

 

🎵『生きていたんだよな』

 

をよく口ずさんでいた。

 

youtu.be

 

自死した女の子を主人公にした歌詞。

 

不登校の原因で、『特に思い当たる節はない』という娘。

 

かなりハイレベルな学習塾に、娘の親友が行っていた。娘も、受験生になる春休みから、その学習塾に通い始めた。放課後、一旦、帰宅して、19時から22時まで毎日通っていた。

 

SNS?

友達?

娘に、理由を聞いても答えない。

学校に行かない理由は、特にない・・・と言う。

 

私は、遠く離れた東京で、

病院実習をしながら、自分の娘が中学校の高い窓から、飛び降りないかと、それが一番心配で、怖かった。

 



私の腹違いの妹が31歳で、実の兄のように慕っていた叔父も43歳で自死した。

自死遺族である私は、どうしても最悪の方へ考えてしまう。

 

私の病院実習の受け持ち患者さんは、精神疾患がかなり悪化し入院されていた方だ。認定看護師の実習は、病棟勤務とは違い、受け持ち患者さんとの時間がたくさん持てる。

 

受け持ち患者さんから、入院までの経緯や、ご家族のお話をうかがっている間、

看護師として、女性として、母親として、

様々な考えが、頭の中を交叉し、いたたまれない思いに何度もさいなまれた。

 



母親が、自分のやりたいことを追うことは、子どもにとっては「悪」なのか?

3週間は長い。うつ状態の娘の大切な時に、そばにいない母親は失格ではないか?

実習をやめて帰るべきか?

でも、この実習をやめたら、認定看護師への道は、なくなるかもしれない。

娘が、飛び降りしたら?

 



毎日の実習報告と、看護計画・実践・評価、関係機関との調整などがあり、時間的な制約は多かったが、できるだけ娘とLINEやビデオ通話で話をした。

 

娘が、いつも口づさんでいた、あいみょんの

🎵『生きていたんだよな』の歌詞

 

🎵生きて 生きて 生きて 生きて 生きて

生きて 生きて 生きていたんだよな・・・

 

の部分が、あいみょんの歌い方のせいか、どうしても、あいみょんからのエール

「生きて!」と言われているように聴こえた。

 

 娘、生きて!

 娘、生きて!

 

どこにいても、心の中で、ずっと、あいみょんの歌とともに、私の声がこだまする。

 

 


葛藤の中、夕暮れのビデオ通話で、「お母さん、実習がんばって。私、大丈夫だから。おばあちゃんもいるし」ボソッと、娘が言った。

 

泣いた。

 

娘のこと、

受け持ち患者さんのこと、

認定看護師のこと、

が、一気に込み上げてきて、胸が熱くなった。

 

みんな、生きて!

 

そうして、3週間の実習を終えた。

最後の日、受け持ち患者さんと2人で写真を撮った。笑顔だった。

 

所縁のある病院のそばを通り、帰路に着いた。

 

 

帰ると、娘の三者面談と進路決定が待っていた。娘は、12月から、少しずつ中学校に行けるようになり、笑顔が戻ってきた。

 

翌年の春、娘は、二次募集で高校に合格した。

私も認定看護師の資格試験に合格した。

 

まだ、「大変だったけど、良い思い出だったね」とは言えない、生々しい記憶である。

 

母親が、子どもを置いて、自分の目標に向かってやりたことをやっても良いのか?

子どものイベントには、母親としてそばにいるべきだ。

 

 

答えは、まだ見つからない。

葛藤は続く。

 

ただ一つ、分かったことは、

その場、その場で、

子どもと、自分自身に

真摯に向き合えば、

その場に適した最良の方法が思い浮かぶ

というとこ。

 

現実や、ツラさから逃げないで真摯に向き合う時、どう動けば良いのかが見えてくる。

それが「母親になる」ということではないか?と、思うようになった。

 



今日も、あいみょんの

「生きて!生きて!」と聴こえるエールを胸に、いつまで母さんは、生きている。

 

 

ギャンブル依存性の旦那と25回目の結婚記念日


夫のギャンブルは、付き合っている時から、「行きすぎてるなあ、変だなあ」

と思うことがあった。

デートもそこそこに切り上げて20時からスロットをしにいく異常さ。

 

今、思えば、あの時ギャンブル依存症だと気づいていたら、

この人と結婚しなかったかもしれない、と後悔することもある。

 

付き合ってすぐ1人目を妊娠。

結婚前だったので妊娠を報告すると、すぐに夫の両親や叔父夫婦、祖父母が顔合わせにやってきた。

 

私の母親は、「看護学校を卒業してから結婚して、また産めばいいから、今回は中絶しなさい」と言った。

 

私の母親についても、いつか書こうと思うが、いわゆる毒親で、様々な問題を抱えていた。夫の父親が「中絶は良くない」と、私の母親を説得して結納の運びとなった。

 

妊娠6ヶ月の時に結婚式をした。

 

私は准看の看護学生だったので、休学して出産した。

その後、復学し、長男を育てながら准看護学校を卒業した。

 

2人目は、それから6年後、正看護師の学校に行っている時に妊娠した。

妊娠4ヶ月の時に国家試験を受け、妊娠5ヶ月の時に卒業した。

 

3人目の妊娠は、流産だった。ショックだった。

 

看護師の仕事していたので、そのせいかとも思い、落ち込みがひどかった。

 

4人目の子を妊娠した時、夫は40歳を過ぎていた。

 

そして、

妊娠5ヶ月の時、「3人目はいらない」と言って、夫が、突然、家を出ていった。

 

夫のギャンブルは続いていた。私の飲酒も続いていた。

給料日前に、夫の所持金が100円以下ということも、よくあることだった。

 

話し合いもなく、通帳を持って出ていってしまった。

妊娠5ヶ月の身重で、小学校高学年の長男と3歳の長女を連れて、

アパートを引き払い、

荷物をまとめて、私の祖母の家に身を寄せるしかなかった。

飛行機が移動手段の離島だった。

 

家庭裁判所に行き、夫から確実に養育費が払われるよう法的手続きをした。

 

それでも、何度も死のうと思った。突然の夫の家出。

3人の子供を抱えて生きていける自信がなかった。

 

上の2人の子の出産は夫が立ち会った。

3人目の出産は、1人で、夜明け前にタクシーで病院に行き、

朝6時13分に出産した。

 

上の子たちが、泣いて、お父さんのところに行きたいという。

どこに行くあてもなく、祖母の家がある離島の空港駐車場に車を停めて、

乳飲み子を抱えて、私は、途方に暮れていた。

 

私は、保育士の免許も持っていたので、

保育士のパートをしながら、生まれたばかりの子供と上の子の面倒を私1人で見ていた。

 

 

小学校高学年の長男は離島の小学校へ転校したこと、

お父さんが家を出ていったこと、

3番目が生まれたこと、

など、彼なりに大きなストレスを抱えていたと思う。

私の過干渉もエスカレートして、勉強のことなどで、長男との言い争いが絶えなかった。

 

 

長女は、天真爛漫でみんなから好かれる女の子だったが、私が、ストレスの吐け口に、長女を怒鳴りすぎたり、お尻を叩いてしまうことが続いた。

 

 

私は、子育てに自信をなくし、長女と長男を怒鳴っては、後悔ばかりしていた。

 

結局、私の叔母と母親が仲介に入り、夫とまた、一緒に住むことになった。

 

しかし、下の子が妊娠5ヶ月の時に話し合いもせず、なんの説明もなく、突然出ていった夫と気持ちが通うことはなかった。

 

夫でなく、『同居している人』『子どもたちの父親』だった。

 

その後も、全く理由を言わす、何度も家出をくり返す夫。

 

下の子が中学生になり不登校が始まってからも、ずっと別居だった。

家出をした夫は、夫の実家で生活し、家事、炊事は夫の母親がする。

 

そうして、ギャンブル依存症の夫、アルコール依存症の私、薬物依存症の長男、不登校の娘の家族の土台がつくられた。

 

どうして『いつまで母さん』というニックネームにしたのか。

 

女として、母親として、妻として、人間として、

これからどうやって生きていけば良いのか、

 

シラフの時は、常に、この問いが自分自身に突きつけられた。

飲酒している間は、その「答えの出ない問答」を繰り返さなくても良かった。

逃げられたし、忘れられた。夜勤明け、夕飯時など、時間を問わず飲酒した。

 

今日は、25回目の結婚記念日。

子どもを育てる同士として夫と一緒にいる。

 

夫とは、趣味も考え方も、全く違う。

 

今では、私が本を読んで学んだので、夫がギャンブル依存症になった理由も理解できる。

 

夫は、生まれてすぐ見ず知らずの民家に預けられた。

 

夫の両親は、両方とも戦争孤児。

親に育てられた記憶が全くないという。夫の両親もこころに傷を抱え、子どもを育てるより、仕事優先だったようだ。

 

夫も両親の愛情を十分に得られないまま大人になった人だ。

 

ギャンブル依存症の夫のことを、哀れに思うこともある。

 

夫は、50代になっても、いつも破れてボロボロのジーンズを履いていた。それしかなかった。ジーンズから、太ももが完全に露わになっていたので、誕生日に新しいジーンズを買ってあげたこともある。

車の修理費用がないといって、落ちそうなサイドミラーをガムテープで固定していたこともある。

 

今でも、夫は、給料日前の2週間は所持金がほとんどない。

 

私たち夫婦は、家賃、光熱費は割り勘。食費は私が出している。

「光熱費が払えないから立て替えておいて・・・」と夫から言われることもある。

 

「いつまで母さん」は、そんな夫と結婚した自分へ諦めと、自分で選んだ道だから仕方ないと割り切った、切なさも込められている。

 

私は子供時代、離婚した両親を見て、「離婚」は親の身勝手だと思って生きてきた。

子どもたちから父親を奪うことはできない。今のところ離婚は考えていない。

 

「母さん家業」をやめる日は来ない。わかっている。死が訪れるまで、私は「母さん」なのだろう。

 

8月10日、25回目の結婚記念日に寄せて。

長崎で誓った断酒

長崎くんちのお祭りで有名な諏訪神社には、狛犬がたくさんいる。



私が断酒を誓った場所

狛犬の脚にコヨリを結んでから、

今日で断酒2年2ヶ月9日目

今年もコロナで長崎くんちが中止になった。

賑わいが再び戻る日が待ち遠しい

 

キリシタンの歴史の街を歩く

ステンドグラスの美しさ

坂の街、長崎

 

 


美しい街

美しい夜

 

 



今日は、長崎原爆投下の日。

どうか、

この平和な風景が

恒久に続きますように。

 

『統合失調症患者の行動特性 第3刷』昼田源四郎

 


精神科病棟で働くいつまで母さんとしては、統合失調症は身近な疾患である。

この本は、先輩から勧められて購入した。

 

第1部 統合失調症患者の行動特性

第2部 各特性相互の関係と統合失調症者の全体像

第3部 統合失調症患者との接し方  まとめに代えて

 

の3部から構成されている。

 

昼田先生が長年診療をされてきた統合失調症の方々のデータや体験、

統合失調症を理解するために世界中で行われた心理テストの結果などをもとに

本書は書かれている。

 

第2部の第2章で、

ハローが行った「統合失調症の方に知能テストWAISの一般理解の項目と、

ことわざの意味を問うことわざ試験」を参照に、

統合失調症の特性と生きにくさについて昼田先生が説明されている。

 

統合失調症の方は、日常生活においてモニタリングの機能が有効に働かない。

そのため、常識的な判断が困難になったり、失敗したり、その言動が奇妙で特有なものになってしまう、という。

 

■引用■

 『統合失調症患者がモニタリングの機能に障害をもつのは、

 第一には彼らが現在の状況の正しい把握に障害を持つためであり、

 第二には参照すべき知識ベースの形成が不十分なためであり、

 第三には照合するという関連機能そのものに障害をもつため

 と考えられる。』

 

その他、本書には、統合失調症の方々の特性が列挙されており、

大変わかりやすくまとめられている。

 

統合失調症の疾患理解や、家族や地域、医療、様々な立場から、

どのように関わっていけば良いか、とても役立つ内容になっている。

 

第3章「様子はみない」という項目の中で、

 

不安や焦燥感が強いという特性をもつ統合失調症の患者さんが、

不眠や落ち着かないと訴えてきたときは、

早急に対応するのが良い、と述べられている。

 

 

■引用■

 『彼らの焦燥感や不安感、あるいは落ち着きのなさといったものが、

 多くのばあい一刻の猶予もないほど切羽詰まったものであることを知った』

 

 

これは私が精神科看護師として勤務している中でも、

毎度、痛切に実感していることである。

 

 

本書をおススメする理由の一つは、

昼田先生の統合失調症の患者さんに対する温かい思いも伝わってくる

ということである。

そして「告知」についても昼田先生のお考えが述べられている。

 

私は、自身を振り返り、

日頃から、知らないこと(無知であること)により、

不安が積み重なり、偏見が生まれると思っている。

 

相手を知るということ、疾患や原因を知ることの大切さを日々痛感し、

学ぶことをやめない姿勢が大切だと感じている。

 

偏見のない社会にしていくために、私にできることは、まず、「知ること」である。

本書でも、昼田先生が述べられているが、統合失調症の患者さんは、優しくて真っ直ぐな方が多い。

 

社会の中で、お互いの足りない部分を支え合い、

住み良い社会にしていく同士であり、

仲間である。

 

ぜひ、ご一読いただきたい本である。

 

 

 

いつまで母さんの体重管理

とにかくものぐさなので、簡単が一番。

 

というとことで、

 

老眼で近視のいつまで母さんが、

寝ぼけていても使いやすい

文字の大きさも魅力的

 

朝イチで体重測定をしたら、そのまま記録している。

シンプル ダイエット 記録ができる体重管理アプリ

シンプル ダイエット 記録ができる体重管理アプリ

  • SIMPLE APP STUDIO K.K.
  • ヘルスケア/フィットネス
  • 無料

apps.apple.com

 

 

他に何も考えずに、

ただ数字をピッピと入力して登録。

 

7月末に、コロナに感染し、

4kg近く体重が落ちてしまった。

 

目標体重を目指し、この2年間、体重が乱高下していたので、

私的には怪我の功名。

そのまま体重キープできたらいいなと思う。

 

 

断酒をはじめたちょうど2年前から記録が始まっている。

 

懐かしい。

メモ書き機能もあって便利。

初めのうちはメモ機能に食事や出来事も記入し、使っていたが、

 

今では、本当に体重を記録するだけである。

 

体重測定は続けることが大切。

記録をつけて客観視することが大切。

体重計に乗らなくなると

てきめんで太る。

私は、この2年間で、2回もリバウンドをした。

この文字の大きさろ使い勝手の良さは、本当に続けやすくて

オススメ。イチオシである。

ぜひ、どうぞ。

『世界一やさしい依存症入門(やめられないのは誰のせい?)』を読んで泣いたこと


10代の方たち(200名くらい)に、メンタル疾患のお話をする機会があり、

たくさん文献を読んだ。

 

ギャンブル依存症、薬物依存症の家族を抱え、私自身がアルコール依存症で、その分野に興味があり、自殺や自傷、依存症関連の本を10冊以上読むことになった。

 

中でも、この一冊は、私自身が身につまされる内容で、

読んでいるうちに、涙が溢れてしまった。

 

リストカット、薬物依存、アルコール依存、その他、性依存やギャンブル依存など、

あらゆる依存症の根底にある、問題と対応方法についてわかりやすく書かれている。

 

薬物依存症の方々に長年関わってきた松本俊彦先生の

実践と経験に基づいた言葉の重みも伝わってくる。

 

快楽のために、依存症になるのではない。

 

依存症になる人は、どうしようもない悩みや苦しみ、

心の痛みを抱えている。

 

依存物質がそれを和らげてくれることを知ってしまった。

『脳がハイジャックされた状態』と説明されている。

 

脳の構造を、いちご大福を用いて説明され、

依存症になる脳のメカニズムもよくわかる。

 

第5章の「トリガーはどこにある?」では、

リストカットをしたくなるときの対処方法が解説されている。

 

 

私は、この対処方法は、全ての依存症に活かせると思う。

 

依存物質にたよった時や、依存行動を起こした時の

『日付』と『誰と何をしたか』を記録する。

 

自傷はしなかったが、自傷したい気持ちになったマークを決めて記録する。

何回も自傷してしまった回数も記録する。

過食した時もマークを入れる。

 

こまかな記録をつけることで、

「自分の事象トリガー(引き金)なのか」

「どんな状況で自傷しやすいのか」が見えてくる。

それをもとに治療の中で、一緒に状況や心境を分析していく。

 

心の蓋の奥にあるものは、人それぞれ違う。

虐待やいじめ、自尊心を踏みにじられた屈辱、身近な人への怒りなど。

 

つらい気持ちを抱えているはずなのに、もう何年も泣いていない、という人もいる、

という。

 

松本俊彦先生「思い」が垣間見れる本文を引用する。

 

■引用■
精神科医として多くの人の治療にたずさわってきた中で、一つ、確信していることがあります。それは「人生において最悪なのは、つらい目に目にあうことではなく、一人で苦しむことだ」ということです。
 

 

 

第7章『社会と依存のいい関係』で、松本俊彦先生は、

 

「見せしめの逆効果」や「失敗しても終わりじゃない」の中で、

依存症の人たちと社会のあり方についても、

依存症に人たちへの懲罰的で排他的な関わりはなんの解決にもならない、

 

と説明されている。

 
 
■引用■

「依存症には、ならないほうがいい。

その理由は、この本でくり返し伝えてきたつもりです。

ただ、依存症になったからといって、人生おしまいではありません。

人は失敗することがある。だけど、そこから立ち直ることもできる。

そういう希望を持てる社会のほうが、ずっといいと思いませんか?」

 

 

本書には、アルコール依存症の私を癒すような優しさと、

解決方法と、希望が、ちりばめられている。

 

『ありのままの自分を許す』を読んでいるときは、

 

つらかった・・・今までの私自身を振りかえった

 

親が離婚して『家庭』の消滅を体感した子ども時代。

孤独だった10代。

死を考えた20代。

 

自分では、アルコールに逃げて

自暴自棄になり、

人生を諦めていたんだ、と思っていたけど、

 

本当の私は、

『生きたかったんだ』

 

私は、自分を守るために

一人で戦ってきたんだ・・・

 

 

と知って、

ただ、ただ泣けてきた。

 

 

とても、わかりやすく、温かな本です。

ぜひ、ご一読いただけたらと思います。

ギャンブル依存症の夫を持つ私の家計簿

結婚して25年になる。ギャンブル依存症の夫のギャンブル歴は、18歳かららしい。

結婚してから、貯金があったことは1日もない。

 

結婚当初は、家賃、光熱費、車検代など、夫にお金を渡せば、その日のうちに全て消えた。

 

今は、家計を別々に管理して、必要なものは全て割り勘にしている。

割り勘と言っても、「今月は、全部使っちゃって、立て替えてて」と言われることもある。

 

光熱費を滞納し、朝、お湯が出なくて、水でシャワーに入ったこともある。電気、ガスが停められたことも何度もある。

 

携帯代も滞納し、夫の携帯がつながらないこともよくある。

 

私は、ノートや主婦之友などの家計簿を利用してつけてきたが、続かず、何度も挫折した。

 

2年前から、YouTubeで「両学長のリベラルアーツお金の大学」で知った『マネーフォワードME』無料版を利用している。

moneyforward.com

 

レシートの写真を撮るだけで計算してくれる家計簿アプリだ。

初めは、楽しくてレシートを集めていたが、だんだん滞るようになり、レシートだけが溜まりはじめた。

 

現金を持たず、楽天Edyで買い物をするなど、日常をキャッシュレス化すれば、レシートを集めなくても計算してくれることに気づき、再び家計管理ができるようになった。

 

予算も、大まかに一度立ててしまえば、あとは月初めに、先月の予算と使用状況から

予算を立てらる。

 

私は、ものぐさでどんぶり勘定、エンゲル係数もかなり高い家庭で悪い家計管理のお手本みたいな我が家。夫はギャンブル依存症で、いつも「お金がない」が口癖だが、マネーフォワードMEを初めて、なんとか、我が家のお金の流れが把握できるようになった。

 

マネーフォワードMEは、夫や、子どもたちにも教え活用している。

便利な世の中になった。

いつまで母さんのトレードマークのメガネが曇る・・・夏はクーラー、梅雨、秋雨


今日は、「いつまで母さん」のトレードマークのメガネのお話。

私は、ひどい近視で視力が左右0.02と0.03しかない。寝ている以外は、常時、分厚いメガネをかけている。

 

今年の妹の誕生日に、プレセントを持って行った。

その日は雨で、仕事の帰りで遅くなったこともあり、妹宅の玄関先で

「お誕生日おめでとう」と言ってプレゼントを渡した。

 

妹の旦那さんも、

「ありがとう。」とお礼を言いに玄関まで出てきた。

 

と、

「・・・」

妹の旦那さんは、

私が話すたびに、マスクと鼻息で曇り、ほとんど前が見えていない私のメガネを見て

言葉に詰まっている。

 

「マスクをしていると、息でメガネが曇りますね。いいのがあるんですよ」

と、メガネが曇らないスプレーを奥の部屋から持ってきて、私のメガネにシュッシュと、吹きかけくるくると指(?)でレンズに塗り広げ、クロスで拭き始めた。

 

「これ、いいですよ。僕も愛用しているんです。メガネ屋さんに売ってますよ」

「便利ですね。購入してみます・・・」

 

 

あれから、半年経って、夏になった。

 

職場やコンビニなど、クーラーが効いている場所から、

外気温の場所に出る際は、一瞬でメガネが例外なく曇り、視界が真っ白になる。

その度に外して、ハンカチで慌てて拭いている。

 

妹の旦那さんのメガネ曇り止めスプレーを、ふと思い出した。

メーカーは、見なかった。スプレーボトルの色も思い出せない。

 

とりあえず、Amazonでそれらしいものをポチってみた。

 

ちょっと得意げな妹の旦那さんの笑顔から、半年。

 

やっと、クーラーの効いた車から降りた瞬間の・・・

コンビニから出た瞬間の・・・

「世界中ミスト。辺り一面、真っ白のコメディアン状態から抜け出せる」